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木谷歯科の歴史│木谷歯科医院│香川県多度津町で最先端の歯科医療を提供する歯科医院(歯医者)です

祖父が開業したのが昭和29年の事で、その時の医院は現在の医院から200mほど離れた場所に今でも残っていて、大正元年に建てられた歴史ある建物なんです。

今の医院に移転したのが1980年で僕が生まれてすぐの事だったので、僕の記憶の中には木谷歯科の院長としての記憶はなくて、おじいちゃんという記憶しか残っていないですね。

私も、歯科医として働いている祖父の記憶は薄くて、小さい頃に詫間の診療室で白衣姿の祖父にかまってもらった記憶が少しあるくらいです。

どちらかというと、ここで働くようになってから年配の患者さんに聞く祖父の印象の方が強くて、祖父を知っている人に言わせると「豪快な人だった」「いい男だった」「面白い人だった」という事らしくて、歯科医としての祖父に関しては昔からの患者さんの方が詳しいのかもしれません(笑)

今の医院の経営を2代目の父親に任せてからは、悠々自適に大好きなゴルフのために詫間ゴルフカントリークラブのすぐ目の前に二回目の開業をするくらいですから、豪快な事は間違いなさそうですけどね。

ここ(現在の木谷歯科)と家が離れていたので、仕事中の父親をあまり知らないのですが、これも患者さんから「おやじさんは怖かった」という話を良く聞きます。家ではそんな事はなかったので、ONと0FFの切り替えがはっきりしていた人だったのだと思います。

僕は小さい頃、たまに母親に連れられて仕事場に遊びに来ていたんですが、歯科衛生士さんにコマ回しを褒められて、嬉しかった記憶があるくらいで、実は小学校6年生まで自分の父親が歯医者さんだという認識が全くなかったくらいなんです(笑)

あ!あと「天声人語を毎日呼んで作文を書けっ」と言われていて、嫌だった記憶はすごい残ってます。今思えば、たまに見せるそんな厳しさのおかげで、成長させてもらったという事なんでしょうけどね(笑)

私の幼い頃の父親の印象は「怖い」という事でしたね。私は長男だったのもあったんでしょうが、弟と違うのはこの木谷歯科医院を継ぐようにとも言われていたし、自分も中学校ぐらいまでは継ぐ気でいました。

私の方が4つ歳が大きい分、幼い頃から父親の事を歯科開業医として見ていたのかもしれません。

私は中学校までは父親の影響もあり、歯科医になろうと思っていたのですが、一回そこに反抗した時期がありまして、今考えれば笑い話ですけど、国連で働く仕事に就こうと本気で取り組んでいたんですよ。

なぜか、国連という響きや国籍がないというイメージに憧れてて、結局は世間が見えたというか最終的には現実的な方向に進んだ感じなんですけど、歯科大に進学すると決めた時は気持ちもスッキリ切り替わって、この時点で家を継ぐんだとはあまり考えていませんでしたが、歯科医として生きて行くんだとやる気には満ちていました。

僕の場合は兄貴と違って「継ぐ」というプレッシャーはなかったんですけど、進路に迷ってた頃「とりあえずは歯科の学校に入ってから自分の好きな事を見つけたらいい」と父親に言われて、それならとりあえずは歯科大に進学して、歯科医になるための勉強は最低限した上で、6年間いろんな事にチャレンジしてみようと思って、歯科大に進学しました。

歯科大に進学したのはいいんですが、基本的に日本の歯科大って知識の詰め込みが中心で歯科医師免許を取るための予備校といった感じの雰囲気なんです。

当たり前かもしれませんが、歯科医という仕事がどんなに素晴らしいかとか、歯科医はむし歯直し屋さんや歯周病直し屋さん、入れ歯職人さんというだけではなく、ヒトの生命維持にどれほど深く関与するか、つまり摂食嚥下系の入り口であり、呼吸器系の入り口でもあり、発音会話を通してコミュニケーションの要であり、治し方一つで人の人生にどれほど大きく深く影響を及ぼしてしまうものなのかという事は教えてもらえないんです。

ただただ国家試験に受かるための実用的ではない勉強だけみたいな。学年が進んで専門的に解剖ができると聞いて「まじか!(喜)」と。自分で興味や意義を見つけ出してからはワクワク感が増してより一層、勉強、研究に没頭していった感じですね。

なので自分で言うのは何ですが成績は結構良かったですよ。校内では140人中常に一桁台の成績でした(笑)成績自体は良かったんですが、私は何事も追求するたちなので、その時に日本の歯科教育がグローバルスタンダードから所々逸脱している現状にも気が付き、もっともっと学び続けなければいけないという思いも強くなっていき、卒業後でも常に勉強、深く研究、学会への積極的な参加というような今のスタンスに繋がっているように思います。

僕はどちらかというと、最低限の勉強はしていましたけど、最初の4年間はいろんなことにチャレンジしていました(笑)元々自分探しという目的もあったので、当時ハマっていたバンド活動に明け暮れて、本気でメジャーデビュー目指してがんばっていました。

勉強の成績はいまいちでしたが、しっかり追試対策をして計算通り切り抜けるという4年間でした。だけど、バンドでメジャーデビューするという夢が叶わなかったのと同じ時期に、5年生になると病院実習も始まり歯科医になるという事がリアルに実感として迫ってきた時、これではダメだと思いそこからは人一倍がんばって勉強しました。

卒業する頃には校内でも10番以内に上り詰めました。こう見えても、やる時はやるんです(笑)

卒業が近くなると、父親から自分の医療ノウハウを元気なうちに伝承したいというような話はあったんですけど、まだ若かった私はとりあえず腕を磨かないといけないと思って、数診る事が出来て、数こなす事ができるハードな職場への就職を選択しました。そこの勤務状況は相当ハードで、確かに数はこなさせてもらえるんですが、私たち新人の指導役は卒後2年目のドクターで的確な教育や指導を受けられなかったんです。

やる気や情熱が人一倍に強かった私は「ここでは成長できない」「むしろ間違ったことを教えられそう」と思い、父親の要望にも応えるかたちで、実家に戻る決断をしたんです。私はこの教訓から若いうちは正しくない教育の下、数だけ診て腕を磨くことよりも、正しい教育を学べる環境下でゆっくり少数を診療して、深く考え、焦ることなく確実に技術を身につけることの大切さを今は凄く実感しています。

当時の私の最初の選択は誤りだったと今は思います。深く考える事が人として、ドクターとして成長する最短距離です。腕をみにつけるのに早いに越したことはありませんが、あとからでもついてきます。今はこう思っています。

僕は卒業して三年間京都の舞鶴にある医院で勤務医として勤めました。

その医院は地域でダントツNO.1の医院で、そこで働くまでの「歯科医は腕やろ」という僕の思い込みとは裏腹に、患者さんに対しての接遇だったり笑顔だったりコミュニケーションだったりを大切にする医院だったんです。

その時、学んだ事は今の僕たちの医院経営にも大きく影響していて、確かに腕がいい事は必要な条件だけどそれだけではダメで、患者さんの立場にたった目線で、いかに患者さんに寄り添えるか?という精神を学んだように思います。

私は歯科医としては半人前で帰ってきたので、それはそれで辛かったです。帰ってきた当初の私には比較対象が少なかったので良く理解できていませんでしたが、今考えれば当時の父親の歯科医としての腕は素晴らしくて、決して優しいだけじゃなく、時には厳しく接する事もあったのに、患者さんからの信頼は抜群に高かったです。

それに比べて何もできない自分に落ち込みまくりの日々でした。父親も優しく教えてくれるタイプの人ではなかったので、ただただ必死に毎日仕事して、勉強して、仕事しての繰り返しです。

私は今でこそいろんなところで評価されていますけど、当時は本当にセンスがなかったな~と思います。自分の腕がついてこない事が本当に辛かったです。だけどその分誰よりも勉強したし仕事もしたのかなとも思います。

今の私があるのは父親との腕の差、信頼の差を若い頃から見せつけられて、それを必死で埋めようとした結果でしょうね。

僕が帰って来た時には兄貴も木谷歯科で7年間やっていて、父親も兄貴も歯科医としてみた時に単純に凄いという印象でした。医院が違えばやっている事も雰囲気も全く違うのがこの世界で、僕が勤めていた歯科医院は予防歯科を中心にやっている医院だったので、そのギャップにはビックリしました。

僕も少しは自信をつけて帰ってきているのに、軽いショックを受けました。以前勤めていた歯科医院はアットホームな感じの雰囲気だったのに対して木谷歯科はキビキビとした緊張感のある職場だった事も当初少し戸惑いました。

木谷の看板を背負って治療するという事は、勤務医時代とは比べ物にならないくらいの責任感と重圧があって、その責任感がこの緊迫感や緊張感を作るんだな〜っと実感しましたね。医療の現場として当たり前の空気感ですが、圧倒されたのは今でも覚えています。

元々父親は60歳になったら引退するって言っていて、結果62歳で引退したんですけど、やっぱり引退の影響は大きかったです。売上的な影響ももちろんありましたし、精神的にも大きなバックボーンがいなくなったという事で、戸惑いは大きかったですね。

僕は帰ってきた2年目ぐらいには父親がほぼ歯科医としては引退していたので、もう少し父親の元でいろいろ吸収したかったという思いはありましたし、やはり地域に密着した医院なので患者さんの父親に対する信頼感が相当高かったので、実際の所大丈夫かな~という不安がはものすごくありました。

でも逆にいなくなった事で自分を奮い立たせて頑張らないと!という思いもより一層強くなりました。

兄弟で同じ医院を経営する事はメリットもあればデメリットもあるとよく聞くんですが、私の場合はメリットしか感じてなくて、私はどちらかというと関心がある事には一生懸命のめり込む方で、医師として最善の治療を患者さんに提供するという事に関しては、とことんのめり込めるんですが、様々な事を一度にそつなく器用にこなすという事が結構苦手な方で、弟はその部分が秀でているので、とても助けられています。

私ひとりだと一歯科医としての自信はありますが、医院長職として幅広くいろんな事をこなすのは難しいと思います。そういう意味では最高のパートナーだし、私の方が弟に迷惑かけてるな~と反省しています(笑)

僕もメリットしか感じてないですね。1人でできる事って限られているじゃないですか?僕は性格的に「これじゃなきゃだめだ」という変なこだわりがない方なんです。なので受け入れるキャパシティは広い方だと思いますし、なんでもチャレンジしてみようという性格なんです。

ひとつの事にのめり込むというより、大きく全体を把握して必要な部分や不足しているパーツを見つけてその部分を補ったり対策を考えたり、兄貴はAがベストだと信じたら、とことん極めるタイプなので、僕はAを肯定的にとらえながら、そこは兄貴に任せて、A以外のBやCをバランスよく補おうと思えるくらいニュートラルな人間なんです(笑)

でも兄弟2人が一緒にやっていけるのは目指すゴール(患者さんと二人三脚で向かうべき歯科医療の姿)が同じだからだと思います。これがズレていると絶対に一緒には出来ていないと思います。

私は弟に対しては「ありがとう」の一言に尽きますね。医師としてもバランス感覚の良さはピカイチです。弟は自分で、私と比べて武器がないとか言う時がありますけど、私からしたらバランス感覚の良さというのは医師として凄い武器なんですよ。ひとつの事に縛られていないからこそできる提案だったり柔軟な対応ってある訳です。また、私と全く違うのが行動に移すまでの早さ。私はファーストステップが遅い。性分として見切り発車的な行動がとれないんです。
ただ私自身はそれでいいと思っている節もあります。今、日本の歯科界は正直厳しい状況にあると報道されていますし、確かにそういう一面もあります。

だからなのか、色々なアイデア溢れる治療法や材料・技術が民間からどんどん提案されています。それらのアイデアを何の検証もなしに次から次へと患者さんに導入するというのは大変危ない傾向だと私は感じています。

治療には様々な材料を使用しますが、私が好んで使用する材料・器具は発売後10年は経過しているものばかりです。10年保って初めて本物、と考えているからです。10年以内にほとんどの製品は流行り廃りの陰で消えていきますが、その背景にはこのような事情があるんです。10年経過して良いも悪いも検証され、それでも残った製品なり治療法が本物なのです。本物は、安心して使用できます。本物でなければ使う気になりません。

このことの最大の問題は2点。

安全かどうか、本当に良いのかどうかという検証がされずに患者さんに提供されている点と、提供後に問題が発覚して製品が無くなった場合の患者さんのフォローができなくなってしまう点です。

困るのは我々歯科医ではありません、患者さんです。そしてその責任は我々歯科医にあります。こういうことから、慎重には慎重を期す私の性格・性質が育まれたのだと思います。でも、情報化社会の現在。そんなことばかりやってたのでは時代の流れから遅れてしまいます。そのあたりのさじ加減は本当に難しいです。
それに比べて、弟はまずやってみようという感じで動けるし、動きながら修正を加えられるタイプなんです。小学校の通信簿でも共通点はお互い勉強は出来たという事ぐらいで「学校での行い」の欄は見事に真逆だったのを覚えています。そういう意味では私にとってこれ以上にないベストパートナーだと思っています。

兄貴は医師として見たとき治療技術が突出しています。僕もそれなりの数の歯科医の先生と接していますが、兄貴ほど歯科医療に対して真摯に向き合って真面目に技術や知識を体得している人はいないんじゃないかと思うくらいすごいです。

頭もいいし一つの事にここまで拘れる姿はいつも尊敬してます。一見僕の方がソフトなイメージがあるんですが、患者さんに対しての兄貴の接し方は本当にフラットで分け隔てなく接しているし、僕はサッカーに例えるなら、力をいざという時の為に取っておいて、チャンスを見逃さずに要所要所で活躍するタイプ。

だけど兄貴は90分全力で走り続ける真直ぐなタイプ。その全力っぷりには感服するしかないです。

弟は専門家以外にはあまり難しい医療関係の話はしないから、分かり難いけど、実は、しょっちゅう県外や海外まで勉強に行ってますし、インプラントや矯正の知識や技術は専門分野としてスペシャリストです。

兄貴は本当に真面目なので、自分とか、木谷歯科がという以上にもっと広い視野を持っていて、いろんな学会ですごい数の発表をしてるんです。

以前「なんでそんな事するの?開業医でそんな事する先生ほとんどいないよ」と聞くと、「自分が得てきて、実際に患者さんに提供していて非常に高い評価を受けている歯科界の偉大な先輩方の知識や技術の1次情報をきちんとした姿で後進に伝えていって歯科界に恩返しがしたい」と語っていました。

本当、真直ぐで真面目で懐が広いんです(笑)

三代に渡って医院を経営していると、三代続けて通い続けてくれる患者さんや二代続けて通ってくれている患者さんがたくさんいるんです。「父親はこうしてくれた」「父親の方がこうだった」という患者さんのプレッシャーから未だに抜け出せないでいます。多分このプレッシャーとは一生付き合っていかないといけないだろうな~と覚悟しています。

「患者さんを裏切れない」「先代に恥をかかせてはいけない」「昔からの患者さんにも認められたい」という気持ちは跡継ぎならではの感覚で、同じ地域で長年地域医療を支えてきたからこその宿命なのかもしれません。その反面、治療内容や治療技術に関しては田舎だからという感覚は全くありません。

医療に地域格差があってはいけないと思っているので、どこよりも最善の治療を提供する事が僕たちの使命ですし、そのための勉強はこれからも追求していきます。

弟ともよく話しているんですが、やはりまだまだ父親の背中は大きいなって。私たちの患者さんへの接し方を見て、「お父さんより優しいね」とは良く言われるんですが、本当に患者さんのために心底考え抜いていたのは父親じゃないかなって。表現はきつかったかもしれないですけど、優しさ故の厳しさみたいなものを父親は持っていて、そこまでの自信をまだ私たちは持てていないと思う時があるんです。

時代は変わるのでその変化に対応して医院の形も変わっていくのは必然ですけど、私たちは三代目として、絶対に変えてはいけない事と、時代に合わせて変えなければいけない事をきちんと見極める必要があると思っています。

一見難しそうですが、全く真逆の性格の二人がお互い尊敬し合い高め合い、補完し合いながら経営しているので、そんなに大変な事でもないよなっと、胸を張ってこれからも木谷歯科をやっていきたいと思っています。

父浩三が、昭和29年に大通りの地で開院し、私琢郎が昭和55年現在地に新築移転。平成3年に医療法人化しました。
 医療には都会も田舎もないという思いで父も私も先頭に立って突っ走ってきましたが、息子達もその意を酌んでよく学び、共に学位を取得し、安心して後を任せる程に成長してくれました。
 これからも、常に患者様の為にスタッフと力を合わせて信頼される木谷歯科医院として、知識、技術の更なる向上と共に、自己管理につとめて責任を果たして欲しいと思います。

〒764-0003 香川県仲多度郡多度津町元町4-6

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